合格発表

東大の合格発表最終日。バイト先の生徒の結果が気になって気になって、朝から勝手に体が起きちまうぜベイベー!ってなことで朝からそわそわしながら何にもやる気しない困ったちゃん現象ですわ。8時に起きたくせに、午前にやったことって瀬佐味亭で太肉担々麺食べただけだしな。


東大に限らず生徒が第一志望に受かるのはこの上なく嬉しいのだけど、やっぱ東大って特別なんだな。自分の通う大学ってのもあるし、単純に偏差値が一番高いってのも大きい。
それに「大学受験」って世界に渦巻く夢やら幻想やら善意やら悪意やら、まあそこまで言ったら大袈裟だけど、でもやっぱそういう人々の欲望めいたものが一番投影されてて「祭り」のムードになりやすいんじゃないかとも思う。


まあそんなつまんない話はさておき、例年通り実際に発表の場に行ってきた。合格した生徒と一緒に喜び、一緒に泣いてきた。残念ながら不合格になった生徒とは、共に悲しみに暮れてきた。本当に嬉しくて、本当に悲しかった。
そして、図々しくて過ぎた望みだとは知りつつも、僕の喜びが君の合格の喜びを髪の毛一本のわずかでも増すことが出来たら、僕の悲しみが君の不合格の悲しみをほんの0.01%でも減らすことができたら。そんなことも願ってた。


あー、あと毎年思うんだけど、やっぱ「うちのクラスは何勝何敗」「大金星」みたいな表現は苦手だ。やっぱ生徒が大学に受かった喜びは、一人分ずつ別々にしまっておきたい。一瞬たりとも、それぞれの合格を分母と分子に落とし込んだり、ランク付けの比喩で語ったりしたくない。
これ、去年も同じ様なこと書いてる(参照:id:shoshoshosho:20050310)んだけど、気が付いたらやっぱすぐそういうことしちゃうんだよな。困った。考えてることもやることも同じって、この1年間で何も成長がないぞ自分よ…。


それと、正しく喜ぶ(悲しむ)ってのがすごく大切なはずなんだ。ってことを考えた。
例えばね。合格発表に「かけつける」「一緒に喜ぶ」とか言ってるけど、結局それ、他人が全存在をかけて勝ち得た喜びや悲しみをかすめとって、コソ泥みたく喜んだり悲しんだりしてるだけじゃん。人の人生を利用して自分が気持ちよくなってるだけじゃん。って見方もできると思う。他者への愛情のはずが実は自己愛、相手のためのふりして結局は自分のために「共感の情」を使ったマスターベーションをしてしまってるっていう。
そんなのはひねくれ過ぎてキモいって多くの人は思うのかもしれないけど、僕にとってどう考えてもそれは現実に起こりうる現象であり、現実に起こりうるというその意味で正しく、だからこそ、決してそういうコソ泥にはならないように細心の注意を払わなくてはならない。
自身は容易にコソって泥っちゃう!という事実をみつめ、その上で「いや違うよ、俺はちゃんと相手のために喜んでんだよ。愛情のベクトルは相手の方に向いてんだよ」と全力でうそぶける義賊の中の義賊にならなければならない。


昼間はそんなこと思いながらもやっぱり合格の報が嬉しくてずっと舞い上がっててニヤけちゃってた。そして夜は浪人してた生徒が受かったということで、その生徒を囲んでみんなで飲んだ!もちろん未成年はバヤリース飲んだ!で、飲み過ぎて記憶を思いっきり失った。元生徒わんさかいんのにさ!うーん、やっぱ自分のための喜び方をしてしまう…。
そして次の朝起きたらまたもや目の前にO山が!いた!彼と二人で朝を迎えるのは何度目だろうか…。


東大だけじゃなくて、受かった生徒たちよとにかく本当におめでとう。今年に限らず、今まで何かしらの形であの塾で接してきた全て生徒たち。他でもないあなた方がいたから、バイトを5年間続けられました。


僕は、生徒の笑顔や泣き顔を日々かすめとって、今日の日記にまでぐだぐだくだらないこと書いて、結局は生徒の(高校生という輝かしい季節の!)感情や人生を利用したコソ泥を5年間やってただけなのかもしれない。でも、そんな「かもしれない」に毅然とした態度で「そんなわけはない!」と言ってのけてみせる。それが今の僕にできる目一杯、最大限の思いやりで、だからこそ、もっかい。心からおめでとう!