女性の方はチをマに変えてお読みください。

どうでもいい、額に書く文字のこと*1などどうでもいい。そんなことは年端もいかぬ若造どもが足りない経験と未熟な頭で大雑把に考えておけばそれでいい。ふうん、では大切なことはいったい何なの?そうそれは、今を生きる大人として真に大切に考えなければならないのは、人間とは所詮「チン毛牧場」なのではないか。つまりチン毛を生み出すためにこそ人間は生きているのではないかということだ。放っておけば際限なく映えては抜け行くチン毛が「ムダ毛」であるとは極めて考えにくく、やはりそこに何かしらの必然があると考えるのが合目的的な視点からしてもごく自然な発想だろう。


かの高名な科学者は「ヒトは遺伝子の乗り物」と謳いあげたが、バカを言ってはいけない。遺伝子など所詮はチン毛の乗り物である。医学部生がこんなに間違ったことを書いていていいのかという声も聞こえるものの、楽しければそれでいい、今こそ高らかに「利己的チン毛説 ("The Selfish Pubic Hair, Shoshoshosho et al. Something romantique, That's all I can dedicate to you. 2006 Sep 22.")」を宣言したいと思う。「et al.」に名を連ねていただける方大募集中である。時代が、変わる!


昼に働き夜を語らう、春に喜び秋を哀しむ、愛し愛され授かり育む。人間のあらゆる営みの根本原理が「チン毛をそこら中にまき散らすこと」であったとしたらどうだろうか。僕らはただチン毛の土壌としてその慎ましやかな生を許されているに過ぎず、愛情も名誉も満足も、風呂上がりのビールもフジロックフェスティバルもあの人の息づかいも、手をつなぐきっかけ一つ作れなかった不器用な恋心も。僕らの心にチアとブルーを与えるあまねく事象が、それぞれの人生を脈打つ歓喜と憂鬱のブレイクビーツの全編が、よりよいチン毛のための「肥料」に過ぎないのだとしたら。


意味。意味は危険だ。油断するとすぐに首をもたげる「意味」という名の病。僕が/私が今していることに、嗚呼、どんな意味があるというのだろう?!*2
人類に蔓延するこのはやり病、しばしば増悪し実に厄介な症状を呈する。プラスの方向にこじらせれば「これほど頑張っているのになぜ周りは評価してくれないんだ」、マイナスに進めば「僕に存在価値などないのではないのか」と。しかし人生は高々チン毛牧場。何をこだわることがあるのだろう。所詮アッシはしがない牧場風情でさあ。どうせアチキは月明かりのマン毛牧場でありんす。キャラ設定がぶれにぶれているが、とにかく、意味だの意義だのくだらないことを言ったところで僕らはたんなる毛牧場、何を気構えることがあるだろうか。


日々湧きに湧く床上のチン毛を見るにつけ、そのような思いはますます高まる。カーペットころころはもはや収穫祭と呼ぶにふさわしいセレモニー、肥沃なる大地としての自身に対する、歓びの人間賛歌だ。
桃栗三年柿八年チン毛十三年(本邦平均値)。昔の人は本当によく言ったものだと思う。

*1:id:shoshoshosho:20060921

*2:知らねえよバーカ