ビトレイ

夢は時間を裏切らない、時間も夢を決して裏切らない/裏切ってはならない。この言葉が誰のものなのか世間ではちょっとした話題になっているらしいけれど、本当に考えなくてはいけないのはその言葉の是非、すなわち「本当に夢は時間を裏切らないのか?時間も夢を裏切らないのだろうか?」ということであって、結論は明らか、時間も夢も互いに互いを残酷なまでに平気で裏切るとしか思えない。大きな夢を描いたとして現実の時間的拘束にその実現が阻まれることはままある、いや、往々にして夢は時間に阻まれるものだし、夢に投じ捧げ続けた時間は、望まれぬ形へ結果する夢と共に徒労へと姿を変えることの方がはるかに多い。時間は夢を平気な顔で踏みにじるし、夢は時間を心なく切り捨てる。


決して裏切らない、時間と夢がそのような幸福で甘やかな共犯関係にあるなんてそれこそまさに夢物語で、しかし、だからこそ、時間は尊く夢はまばゆい。どんなに努力を重ね時間を費やしても実現し得ぬかもしれない、そんな夢を求めるからこそ、夢を追うその先に挫折と敗北の予感がいつだって付きまとうからこそ、僕らは夢を夢見る過程、時間の経過そのものに崇高な光を、救いを見出すことができる。裏切らないと保証された夢に投じる時間は単なる「経過」「対価」だ。そんなものに身を投じるなんて、それこそ限られた、そして戻り得ぬ時間に対する冒涜だ。目標に時間を費やすこと、他の可能性を切り捨てることそれ自身がある種の「賭け」であるからこそ、その先にある夢は秘められた重力となり個々人をどこまでも引き寄せるのではないだろうか。


時間がないから夢を追いかける時間がない、そう言う人を笑う向きは多いだろう。
それはそいつが今まで自堕落な生活をしてきたからだ、机上の空論ばかりこねていないでまずは一歩踏み出してから愚痴でもこぼしたらどうなんだ、現実の問題を理由にしている時点でそんなものは大した夢でないんだ。
しかしやはり、現実をサバイブするには労働であれ勤勉であれ一定以上の時間を社会という名の絶対審級に捧げ続けることが要求されるのであり、描いた夢の実現が物理的に不可能なケースだって十分に生じ得る、さらに言えばそこかしこで僕にも彼にも彼女にも余裕に頻発しているように思われる。そして同時に、山のあなたのまたあなたではないが、どう転んでもたどり着けない地平にあるからこそ夢をあれこれと夢想する自由が担保されているわけで、その意味では「時間」という現実のファクターが夢にコクと深みを与えていることもまた事実かなあ、なんて甘ったれたことを考えてしまったりもする。


さっきから君の言っていることは夢を放棄した人間の言葉遊び、脆弱な自己が傷つかぬための欺瞞ではないか。努力を放棄しているにも関わらず叶わぬ夢を自己正当化しようとする態度、それは君の幼く醜い人格が生み出す「すっぱいブドウ」だ。という誹りは免れないと自分でも思う。でも、その欺瞞の中に一抹の真理が眠ることを無根拠にも信じたい。そこに何かしらの「一理」があるのだと声を大にし叫ぶことで、祈りに代えたい。


夢は時間を裏切らない、時間も夢を決して裏切らない。それは僕らに勇気と希望を、ポジティブであたたかな安心感を与えてくれる気も狂わんばかりにまばゆい言葉だ。
あに素晴らしからんや時間と夢の結ぶ、希望と幸福に満ちた蜜月の共犯関係。だけれど、その脇にはいつだって叶わぬ夢と砕けた時間が幾層にも積もり、横たわっているのではないだろうか。足りない時間、叶わぬ夢。そういった「裏切り」と真正面から対峙しなくてはならない。身を切る覚悟で居心地の良い蜜月を放棄し、絶望と不幸、欺瞞と自己正当化から「時間と夢の共犯関係」を再出発させなくてはならない。


夢見ることを茶化したいわけではないし、努力に時間を費やすことを否定したいわけでもない。むしろそのような実践に身を投じることのできる多くの知人たちを万感を込め尊敬するし、夢や時間を諦めることを自身に認めてはならないと心から思う。だからこそ、時間と夢の裏切りをまずはきちんと見据えたい。