立ち読みだけでモノを語る

否定形と思われがちだがそんなことはなく、申し訳ないという言葉は徹頭徹尾「申し訳ない」ではないか。そもそもこの言葉をおぼえた時すでに「mousiwakenai」という言葉だった、つまり最初から最後まで申し訳ないはあくまでひと塊の「申し訳ない」なのであって、それこそが恥の文化、和製メンタリティの「粋(いき)」というものだ。日本の心だ。え、「申し訳ある」状況なんてこの世に存在したの?マジで?! くらいでいたいのだ。ありもしない周りの目を気にし、ジメジメと下ばかりを向いて「申し訳ございません」と平身低頭しているのが日本人の正しい姿。そうは思わないだろうかみなさん。私はそう思う。半分くらいは思う。


BRUTUS (ブルータス) 2007年 2/1号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2007年 2/1号 [雑誌]


内容は雑誌に譲るが、コンビニでBRUTUSを立ち読みし巻頭特集である茂木健一郎特集を読むにつけ、彼の発言に漲る自信と確信が私を痛く悪酔いさせた。何なのだろうか、氏の発言から猛然と迫り来る「申し訳なさの欠如」は。
「なさの欠如」とはこれまた洒落た表現だよね、今日も当ブログ「ロマンティックあげるよ。」をよろしくメカドック!モギモギ!などと言葉遊びを弄したいのではなく、上に述べた通りの意味で「申し訳なさ」自体が欠如している。そう申し上げたい。


茂木さんの独創性に溢れる発想や発言、また華麗なプロフィールは多くの羨望を勝ち得るに値する個性的かつ極めて魅力的なものだが、あそこまで「俺様」だともうそれが一番のオリジナリティだ。「人文系サイエンティスト(今勝手に作った造語)」の方は往々にして、自分はアート方面にも興味、いや、理解がありますしサイエンスの立場からそれをあれこれしていくのが私のライフワークなのです。的な発言をするけれど、そういった立場から語られる言葉には得てして「迷い」というものがない。「本当にこの言葉で言いたいことが伝わるのだろうか」「私にこんなことを言う資格があるのだろうか」というヘジテイト、いや違うな、やっぱり「申し訳なさ」だと思うのだけれど、そういったものがスカーンと抜けていることが多い。言葉を単なる「記号」だと考えているのではないのか。このあたり私にも似たような節があり自身が腹立たしいことこの上ない。


好き嫌いの基準は「自分と同じかどうか」であり、好きなもの、すなわち「自分の分身としての」他人や作品への敬意は感情的かつ情緒的な言葉でそれに代え(そこで「人文系」というアリバイが大きな意味を持つ)、自分と異なる考え方をしている人・ものは理論の刃で徹底的に切って捨てる。この時は返す刀のサイエンティストという側面がものを言う。
当然ながら人文系であれば情緒的にものを語って良いという理屈はなく、理科系人間が論理を武器に他者を否定して良い根拠だってどこにもない。そしてこれについても先と同様茂木さんを鏡に私自身へ悪態をついているだけである。自分に噴飯やるかたない。


ともあれどれほど頑張ってもこの人の著作を読み通せない(3冊くらい試して全部ダメだった)理由が少しわかった気がする。言動の中に「自分」か「自分より下の人」しかいないという印象を、BRUTUSを読む限りでは受けた。「他者」という、自分へのそれ以上に畏敬の念を抱くべき対象が欠如している。「申し訳なさ」あるいは畏怖の念、かしこまりと言い換えても良いだろうか、そういの、そういうものが決定的なまでに備わっていない。
人生から挫折やインフェリオリティ・コンプレクス*1を遠ざける最良の方法は「他者」の排除であるが、まさにそれを地でいく「負け知らず」こそが彼の日常なのだろう。言っていることは面白いのに、語り口がどうにもダメなんだ。
人前で何かを発言する際の基本ルールは「私みたいな人間がこんなことを言うのはおこがましいのですが、それでも言わずにいられないんです」なる、言うなれば申し訳なさを命がけに「投棄」することなのではないか(大袈裟!)。そしてそれは申し訳なさの「欠如」とは決定的に違う。投棄と欠如、同じ「申し訳がそこにない」という地平から表面上は似通った発言をしていても、底に眠るメカニズムが完全に反転している。


とにかくこういう人、苦手!でも好きなこといっぱい言ってたから好き!

*1:客観的に相手より劣っていることへの劣等感ではなく、自分で自分の不完全さに勝手に思い悩むこと。くらいの意味で使っています