だまし舟

植木鉢とかでもいいんです!
もう全くその通り。全面的に賛成。ソウロン賛成、カクロン賛成。植木鉢でいいんです。サークルのみなで新宿は千草。土曜のパーティー Do you know the party、意味はないけれど最高に意味のある、そんなお酒を囲んでいるときのことその場にいた女の子の一人が宣った言葉がこれだ。植木鉢とかでもいいんです!


現在大学生のその子は高校生および受験生の折、自分の中に生まれくるストレスや鬱々としたネガティブな感情を処理、いや処理というと捨てるみたいだから違うかもしれないけれどとにかく上手く対処して昇華させるために、ぬいぐるみを使っていたらしい。声に出して話しかけていたのか脳内で音だけを響かせていたのかはわからないが、とにかくそのぬいぐるみと「対話」をすることでメンタル面での難局を乗り切っていたという。本来そういうことは友達や家族を相手にやるべきことなのかもしれない。でもそんなことに人様の手をわずらわす(大切な人様を「使う」ことになってしまう)のも申し訳ないから。ということでぬいぐるみの登場となる。
「形が比較的ヒトっぽい」という理由で選ばれただけなのでそれは本来的にはぬいぐるみである必要もなく、極論すれば意味としての「ぬいぐるみ」でさえあれば何であっても(効果の程は違ってくるとしても)構わないんです。という意味で冒頭の一言。植木鉢とかでもいいんです!


総じてその場にいた他の人は「ええー、ぬいぐるみ ?! そして植木鉢ぃ ?!!」というリアクションであった。かねてからネジの一本足りないぶっとんだ発言を連発するその子(褒め言葉です)なだけに、僕もゲラゲラ笑った。
しかしゲラゲラしながら同時に「そうそう!」と心の中で膝を打っている自分もいた。考えるに彼女と同じことを僕はやっている。おそらく高校1年生くらいからだけれど頭の中に「もう一人の自分」を作り上げ、その「自分」と対話をすることで、生まれくるネガティブな感情を解消。自分会議、という糸井重里チックな名称を与えられたこのプロセスを幾度となく経てきた。そして今でも経ている、経つづけている*1。ブログであれこれ文章を作ることも同じ意味を持っているのかもしれない。植木鉢も脳内の他人もブログも、結局は「ぬいぐるみ」だ。


「お互い様」上手な人になりたかった。今でもなりたい。一人では対処しきれない(対処の難しい)ネガティブな感情やストレスの渦。そういったものを前にして家族や友人あるいは恋人へ上手に甘え、もたれ、そして甘えさせ、もたれさせ。自然とそういうことが出来る人が世の中にはたくさんいるらしいとことに気づいたのは、いつのことだったろうか。
相手をこちらの都合でどうこうすること、つまり他人を「ぬいぐるみ」にすることがものすごく申し訳なくて遠慮してしまって、と私がためらいあぐねるあまりアグネス・チャンになっている横で、軽々と相手を「ぬいぐるみ」化している人がたくさんいる。そういう人は自分が他者の「ぬいぐるみ」になるのもものすごく上手だ。自ら進んでかつ自然と、適切なタイミングで自身を「ぬいぐるみ」にし丘の上でヒナゲシの花を咲かすことができる。互いが互いの「ぬいぐるみ」として背負い、背負われている。これが僕にはまるで魔法のようにすごいことに見える。他人を「ぬいぐるみ」にすることは決して失礼なことではなく、自分が「ぬいぐるみ」になるという点においてそれは十分に根拠づけられている。(「根拠」などという言葉を持ち出すだけ野暮な話なのだけれど。)
とまれ、自分が他人の「ぬいぐるみ」になることは、他人を自分の「ぬいぐるみ」にする権利を担保する。他人を「ぬいぐるみ」にできない人間は、おそらく決して他人の「ぬいぐるみ」になれない。「お互い様」の基本原理はおそらくここにある。


人が悩みを抱えているとき本当に大切なのは理路整然と状況を分析することでもなく、的確なアドバイスを送ることでもなくましてや気の利いた一言で現状を笑い飛ばすことでもなく(勿論これらはみな重要だが)、ただそこにいて「ぬいぐるみ」になってあげることなのかもしれない。言葉を裏返せば、こちらが悩みを抱えているときに本当に大切なのは気丈に振る舞うことでも、そういう時だからこそ周囲に気をつかうことでもましてや状況をお得意のユーモアで笑い飛ばすことでもなく(勿論これらはみな重要だが)、ただ相手を「ぬいぐるみ」にすることなのかもしれない。自分がしたいように泣き、愚痴をこぼし、酔いつぶれる。裸の自分をさらけ出す。それは失礼や申し訳ないなんかとは次元の違うとてもあたたかな行為だ。僕はこれがトコトンできない。お互い様になれない。


僕たちは「ぬいぐるみ」としてのだまし船みたいなもので、時に帆先として時に舳先としてその役割を変える。相手が望むなら舳先は帆先で、僕が望むから帆先は舳先。だまし舟はだまされ舟で、だまされ舟はだまし舟なのだ。相手がそれを望むのならばくだを巻きその人を「ぬいぐるみ」にすれば良いし、それは相手が望むという点において、同時に自身が「ぬいぐるみ」になることでもある。
二人いるから舟になれる、二人いないと舟になれない。互いに互いを必要とし合ってようやく完成した舟が所詮は「だまし舟」だなんて、何と悲しくて幸せで気の利いた皮肉だろう。


植木鉢とかでもいいんです!
冒頭にそう言った子は、ひょっとしたら、僕が今こうやってウダウダ考えたことなんて直感的にとっくにわかり切っていて、植木鉢は自分を「ぬいぐるみ」にしてくれないことも知っていて、だからこそますます植木鉢という名の「ぬいぐるみ」を選んだのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。

*1:これだけ「経る」が続くとダウンタウンのコントを思い出さずにはいられません。廊下を経てー!ドアを経てー!