アンデス

人は悲しいくらい忘れていく生き物、いや、生き物オウオゥだから愛される喜びも寂しい過去もポロポロと頭から抜けていってしまう。忘れることイコール害悪というわけではないしむしろ忘却こそが人間の健全な精神を保証しているのかもしれないが、こと「試験」に関して忘れるというメカニズムは徹底的に「悪」だ。がんばって10点分のことを覚えてもその日に8点分の知識が抜けたらトータル2点相当しか勉強していないことになる。今日8割できるようになった問題集も一週間後には7割くらいしかできなくなるに決まっていて、もしテスト当日に点数がとれなかったのなら、それは勉強してないのと同じことだろう。オウオゥ。


リャマとアルパカ―アンデスの先住民社会と牧畜文化

リャマとアルパカ―アンデスの先住民社会と牧畜文化


目の前の男性が『リャマとアルパカ』という本を読んでいた。いつもと同じ本郷三丁目ドトール、本のセレクションは確かに嘘くさいが作り話ではない。私がクエスチョン・バンク(医師国家試験用問題集)を解くその向かいで、年の頃おそらく私と同程度の青年がリャマやアルパカについて知識を深めていた。エア・ポンチョ、エア・ちょびヒゲが彼の背後に透けて見えた。
読みたい。読んでいる間だけ楽しければそれで良い、そんな純然たる「読書」がそこにあるのではないか。コーヒーを片手にただただ好きな本とゆっくり語らいたい。世界は広いのだ、これを覚えたら得点アップ!という精神衛生に極めて悪い流れ作業を抜けだし、遠くアンデスに思いを馳せたい。


それにしてもなぜ彼はリャマやアルパカについてそれ程までに知見を得ようとしているのか。単なる興味とは思えないほどに「頑張って」かの本を読み進めているのだ。うつらうつらと舟を漕ぐのに読書の手は決して休めようとせず、目をこすりフリスクを噛りシャーペンで太ももを刺しながら必死でページをめくろうとする。そんな残念なことをことするのは、して良いのは受験生だけだ。お客様、当店で太ももはお控えください!じゃりン子チエみたいな女店長がいつ飛んでくるかとヒヤヒヤしながら彼を見守る私。彼ばかりを見ているのも不自然かと、折に触れ隣に座るすごいミニの人を伏し目がちにちらりと見やる私。ちょっと嬉しい私。
ひょっとしたら獣医師になるためにはリャマやアルパカなどについても一通りの造詣が必要なのかもしれない。一般に知られていないだけで「一級公認アンデス師」や「あったかい毛 鑑定士」など、リャマやアルパカへの深い理解が合格への鍵を握る資格試験が世の中には存在するのかもしれない。ああ、世界は広い。