吸うことについて

ウイダーインおっぱい説をここに発表したい。利き腕でぎゅっとするのも10秒間チューチュー吸うのもそぞろに胸のうち騒ぐ(おっぱいだけに)ものであり、くわえて吸い口の形状はまさに。乳頭部のメタファーに満ちている。ウイダーに限らずクーリッシュにも同様のことが言えるがあの容器を考え出した人は掛け値無しに天才だ。ふたを開けると口にとびこんでくるのは10秒チャージでも冷たいアイスクリームでもなく、赤子のわたしたちが初めて乳房をあたえられたときにみた、始原のよろこびなのだ。


考えるに「吸う」という行為は僕らが「ごはん」をいただくに際し、生まれたその後いのいちばんにおこなう所作だ。食べるでも飲むでもなく、吸うのが最初。快感の刷り込み現象は一生涯尾を引くもので吸うという行為を人間はいつまでも欲望し続けるけれど、それは未成熟のあかしでもあるからやはり公衆の面前で堂々となにかを吸うのはためらわれる。だからこそ、吸うことにはどこかうしろめたい快感が伴う。つまりはそういうことなのかもしれない。(この快楽をストローという形で正当化したのだから人間は本当に頭が良い)


なにかを吸うときくちびるは肛門になる。円形にすぼめられた口唇は放射状にしわを走らせ、みずからを肛門に擬態する。このときほんものの肛門は依然として肛門のままなのだろうか。答えはノーだろう。くちびるが肛門になった以上は肛門がくちびるにならなければ保存則がなりたたず、消化管の入り口と出口にまつわるお勘定がおかしなことになってしまう。ウイダーインを吸いこむ10秒間、それはくちびると肛門がひっくりかえっている10秒間でもある。恥ずかしながら私は、何かしらをみずからのくちびるで吸いながら自身の肛門(記述に正確を期すならばその瞬間はくちびるになっているはずだ)を眺めたことがないので確証は得られていないが、さすがにこの線はかたいだろう。


同様のことがボラギノールに言える。肛門からボラギノールを注入する、それはウイダーインの逆転現象であって、件の理屈でいえばすなわちそのときボラギノールを入れられる肛門はくちびるとなり、本来のくちびるは肛門へと姿を変えている。
冒頭に述べたとおりウイダーインはおっぱいだ。でははたしてボラギノールウイダーと同じくおっぱいなのかと言えばそれは違う。意地でも違っていてほしい。もし法律がおっぱいとボラギノールを同一のものとみなしたとしても、科学のちからが両者の相同性を証明したとしても、私にはおろかなドン・キホーテに身をやつしきつぜんと立ち向かう覚悟がある。夢を追うという犯罪に荷担しつづける、義賊にも似た心の整理ができている。