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今日は日テレの24時間テレビ。今まで黙っていたけれど、わざわざ言うほどのこともないだろうと甘えている面もあったけれど、いい機会だからここできちんと私の愛情を言語化しておこう。毎年感動をありがとう。愛してるぜ、愛は地球を24時間テレビ。愛しすぎて毎年5分くらい見るとついチャンネルを変えてしまうんだ、今年のテーマは「人生が変わる瞬間」だぞ24時間テレビ
今夜の私は当直の夜につき番組の様子をしっかりと追えない。無念の極みである。


あの番組からはなたれるポジティブで善意に満ちたパワーは毎年決まって私にちょうど1年分の勇気をくれる。モニター越しではあっても心にひびく、たしかな実がある。テレビでの鑑賞であるからまだ正気を保っていられるものの、もし実際に武道館にいたとしたら、「地球への愛情」や「人類の連帯」なる私のようなちんけな小市民からしてみれば崇高に過ぎる理念に圧倒され、感激のあまり思わず嘔吐・失禁しているに違いない。100kmマラソンや障害者チャレンジ企画、滝沢くん主演の特別ヒューマンドラマなどから発せられる馥郁たる愛と勇気の放射線は私の細胞という細胞に致命的なダメージをあたえることになるだろう。ああ、24時間テレビのもつ無条件の説得力、高邁なるヒューマニタリアニズム、そして人間の理性に対するとめどない殺傷力よ。
欽ちゃんがゴール後に「俺もがんばったぞぉ〜!ニッポンもがんばれ〜!」などと球団問題のときと同じ「勝手にニッポンを背負った」発言をしようものなら、数年後に「政治にユーモアを」をスローガンに出馬などしようものなら、私は感涙とともに欽ちゃんを映し出すモニターを叩き割ることを躊躇しまい。勘違いしないでいただきたいが、これは不器用な男に許された唯一の愛情表現だ。





そうは言っても何年か前までは「なにやらイケてる」とされていたゴリラのT-shirt、それを完膚無きまでに値崩れさせるほどの国民的パワーが24時間テレビにはある。募金を通じ目に見える形で社会にコミットしていく実践の精神は、番組が安易なラブ&ピースの観念論におちいることを決して許さない。これでもかと歯にダイヤを埋め込んでいる男のデザインしたシャツを着ながら飄々と募金を呼びかける、そんな卓越した、まさに現実家ならではのとぎすまされた経済感覚に私など愚人はただクラクラするばかりだ。


その人が太っているかどうかの指標に「体重」を用いることを最初に思いついたひとの知性はまさに人類の至宝と言える。見た目の問題を一見直接の関係がなさそうな質量の世界、数直線の世界に還元してしまったのだから。「太った→体重が増えた」という図式、21世紀に生まれた私たちにしてみれば当然すぎる考え方とも思えるがここには人類の大きな英知の集積、かがやく才気を見てとれる。どうやったらこんな発想ができるというのか。閑話休題、話を募金に戻せば、思いやりの深さ、愛情の広がりを「募金額」で計るというアクロバットは体重の発想を上回るまさに天才のアイデアと言えるだろう。数値化は競争を呼ぶ。俺も、僕も、私もと、みながこぞって募金を投じればますます社会は良いものになっていく。


森口博子高木美保高橋ジョージに中山秀征など今まさにあぶらの乗り切ったトップスターたちが一堂に会し(左記メンバーは適当に予想)名曲を通じてポジティブなエールをおくってくれることも大変にありがたい。1曲が終わるたびに気が付けば、心なしか考え方の前向きになった、歩幅の幾分か大きくなった自分がいる。毎年似たような曲ばかりを聴くような気がするのだが、これは良くできたデジャビュ、真夏の蜃気楼、あるいは志村けんのコントだろう。ボケた老人役の志村が「ばぁさんや、飯はまだかぃ?」を延々繰り返すあれだ。感動にほのぼのとした笑いすら盛り込むとはなんと欲張りてんこ盛り。さすが局をあげての一大番組、練り込みようが尋常ではない。
歌、歌、徳光、歌。突然訪れたヴォーカルの訃報により「負けないで」の感動ポテンシャルは今まさにピークに達していよう。私であれば前奏が始まった途端に、イントロクイズかと思うスピードで号泣を始めるに違いない。準備はできている。


カラオケとマラソンにドラマ、そして障害者チャレンジ企画。全く刷新の様相を呈さないこれらのコンテンツ・ラインナップに、慣例の名の下に形骸化したなにものかを感じ取る向きもあろう。しかしそれは大きな勘違いというものだ。これは日本の「伝統芸能」であるからして、形式を守ることそれ自体に最も大きな意味がある。完成され尽くした様式美の最大の利点は、安易な不整脈発作をお年寄りに振りまかないことだ。うねりの無いのっぺりとした番組進行にしておけば子供がバタバタ泡を吹いて倒れることもなかろう。お茶の間が、国民が、各々のバイオリズムに気兼ねすることなく安心してチャンネルを合わせられるヘルシー・ティーヴィー・プログラム。30年の伝統をくつがえす突拍子もない冒険的企画、福祉の暗部に深く切り込むメスのような、良識ある社会派の問題提起などはいらぬ脳卒中を招くだけだ。そんなものにお呼びのかかるはずもなかろう。絶対零度下の分子のように安定した、去年も今年もけっきょく何も変わってないんじゃない?ていうか再放送じゃね?でもシャツにゴリラ柄ついてるし…。くらいの番組制作こそが切に求められている。


それにしても、あれほど嫌いだった24時間テレビが今年はどうにも「まあそういうのもアリだよな」になってきているあたり、年齢の不思議を感じずにはいられない。10年後くらいには普通に感動している可能性も大いにありそうだ。なんとなくの、思い出になんてぜんぜん残らない「感動」くらいが丁度いいじゃない、という。
当直の合間を縫って感動の現場をちょくちょくチェックする必要がある。今夜は眠れそうにない。