クラス会

一昨年のバイト先の生徒たちと同窓会。花火やった。軽くビールとか飲みながら、みんなで集まって花火をやる。花火ってほんと楽しいね。
花火は消えるからいい。すぐに消えると分かってるからこその魔法がそこには宿っていて、暗闇の中振り回すと本当に魔法使いの杖みたいだ。またたく間の夢心地だ。


単純に「ただ花火をやる」っていう企画自体もよかった。
思うに最近の僕は、喜びを得るためには何だかんだでお金がかかると思い込んでいた。フジロック流しそうめんも美味しいご飯も飲み屋も、その他何でもかんでも。
例えば花火やるとしたら、多少値が張っても美味しいお酒を用意して、おっきい花火や珍しい花火をいくつか用意して、きれいで準備や交通の便の良い場所を探して、ってそういう風にやっちゃってたと思う。あとはそうねえ、僕が好きな方向性ではないけど、みんなで浴衣を着て雰囲気を出しましょう、みたいなのとか。そんな風に手間ひまかかったイベントは確かにものすごく楽しいんだけど、ひょっとしたらそういったあり方っていうのは、ものごとの本質的な喜びであったり感動を、ときに薄めてしまうのかもしれない。単なる「見栄っ張り」にすぎないのかもしれない。
ただ単に花火をする、ただそれだけの「素材の味で勝負」みたいなシンプルな喜びをどうやら僕は忘れていたみたいだ。それはもちろん、お金がかかってないから偉いとかそういうことじゃなくて、当たり前だけど周りの人を喜ばせるためにはいつだって自分史上最大限の準備であり思いやりを発揮しなくちゃならない。ただその思いやりやら準備ってのは、けっして「凝った」企画をしたかとか「洒落た」趣向を用意したとか、そういうことが必要十分なわけじゃないんだ。


よくよく考えればこの一週間を振り返るだけで、福島行き(id:shoshoshosho:20050814)、流しそうめんid:shoshoshosho:20050815)、家族旅行(id:shoshoshosho:20050818)も、そして今日の花火も。全部が「周りの人に喜びを!」っていうあたたかくてやわらかい愛情に満ちた出来事だった。なのになのに、僕はのんべんだらりとそういう気持ちに気づかずに「凝ってて珍しげなイベントだったらオッケー!(←ハードゲイっぽく読んでね。振りながら!)」みたいな安直で下品なぬるま湯に、それと気づかずに肩までつかっていたんだ。←注:もちろんハードゲイが下品なんじゃないですよ、いや、レイザーラモン住谷、下品は下品だけどこの文脈で使われている「下品」ではないですよ。
あれほど僕の人生のバイブル「美味しんぼ」でヘチカン先生(水だけで客人をもてなしたと思ったら、平然と雄山の五大鍋(すっぽん、蟹、ふぐ、松茸とハモ、あわびのしゃぶしゃぶ)が美味いと平然と言い放つ国宝級の茶人)に「もてなし」の何たるかを散々教えていただいたのに何たること!またも馬脚をあらわしおったか士郎!
そう、僕はあのときの士郎よろしく、結局「自分が心から最高だと思うことを全力で伝える」じゃなくて「もてなしてるつもりで実は周りの人に嫌われたくないだけ、単に人に媚びてるだけ」ってことになってたんだな。よろず鍋だったんだな、気づかないうちに。うわーマジで怖ぇー!
ってか、「美味しんぼ」のエピソードが通じる範囲って狭ぇー!…って知るかそんなこと!この例が一番今日思ったことを伝えられると思ったから鍋の例を出したのだ!つまりこれはもてなしの日記だ!←典型的な「もてなし」の誤解。


みんなで集まって夢見心地に花火をやれば楽しい。そのシンプルで実直な感動のために、企画者のSさんは本当にたくさんの準備をしてくれていた。必要な道具を全部揃えて、買い出しに行って、たくさんの人を集めて場所を探して。本当に本当に楽しかった。
僕はものすごく簡単でものすごく大切なことを忘れていたんだな。
S木さん、本当にありがとう。