優子は豚

ただひとつ、吉野家を除いては。この絶望の果てにも似た留保に私は幾度涙を飲んできただろうか。


私が居を構える古代裸市、最寄り駅たる鼻小金井は東京グランドラインの終点として名高く、人類の歴史のすべて、ありとあらゆる財と富が揃っている。街は真珠色の街灯に照らされ淡くかがやき、思いつく限りの料理と美酒がテーブルをおおい尽くす。AカップからHカップまでもれなく揃いぶみ*1、江原俊之も3人くらいいる。必要ないのに3人も、そのくらいに富が充実している。ただし三輪明宏がいると「あの世」になってしまうから三輪明宏はいらない。ikkoとかも何となく人類に必要ない感じだからいらない。どんだけー。今さら感がいっぱいなあたりは何卒お許しいただきたい。話が随分とそれたが、とまれ古代裸に住むことはそれだけで何にも代え難い名誉なのだ。何度でもくりかえすが、この街で手に入らぬものはない。ただひとつ、吉野家を除いては。どんだけー。


16日早朝、ゆえあって新宿を一望できるベッドルームで目を覚ました私はブランチをとろうと代々木の駅前へ向かった。吉野家である。ユートピア古代裸に唯一欠けたパズルのピース、月の裏側へかかったはるけき虹の橋、つまり吉野家が目前に。見える。ああ逢いたかった、愛しの吉野家よ。
慣れ親しんだマイ定番メニューへの期待は時として新規メニュー開拓への冒険心を上回る。豚キムチ丼ツユ抜きに半熟たまご、それとごぼうサラダをください!
おなじみのルーチンを注文できた幸福にしばしひたろうとする私を尻目に店員さんが何やらわけのわからないことを言っている。音、色、におい、今でもありありとその場を脳裏に再現できるので試みにここへ書き写すならばこうだ。「当店は牛丼専門店ですから豚丼もキムチも取り扱っておりません。」
豚もキムチも置いていない、目の前の店員さんがそうのたまっていらっしゃる。「牛丼」なるブランド商品を復活できたことに対する自負や誇りが彼の表情から透けて見えるのは気のせいだろうか。


長すぎる前口上を終えようやく本論に入るが、ここに見る吉野家の「牛丼オンリー」戦略に私は断固反発したい。さんざん豚丼やら牛鍋丼あげくのはてには鶏までメニューに加えておきながら、手のひら返し自信たっぷりに「うちは牛丼専門」と恥知らずにも高言してのける店舗を存在させているあたりが実に解せない。
確かに私も泣いた。2004年2月11日吉野家から牛丼が消えたあの日、歌を忘れたカナリア、選挙を忘れた小沢一郎にも似た心もちで店舗の前にくずれおち人目もはばからずさめざめと涙を流した。男の嗚咽がときとして愛情を代弁し得るのならば、あの時の私は間違いなく牛丼を愛していた。しかし時は過ぎ、傷心の中ようやっと巡り会った新たなパートナー豚キムチ丼が私の横に寄り添っている。最初はぎこちない所もあったけれど随分と呼吸のリズムや夜に電話をかけるタイミングも馴染んできた、よく歌う鼻歌も何種類かおぼえてこれからますます仲を深めていこう。そんな大切な人。


吉野家の「牛丼オンリー」戦略、これはつまり昔の女だ。牛丼すなわち昔付き合っていた彼女(アメリカが二人を引き離しました!)はある日突然、真っ赤な外車からあの時と同じ笑顔で現れる。ひさしぶり、元気にしてた?変わらないその声、いつも途中で面倒くさくなって語尾をはしょる色の強いくちびる。変わっていない。しかし今の私には新しい恋人(豚丼)がいて、だから久しぶりに会えたんだったらまずは豚丼を食べたいのが筋というものだし自然な気持ちだというのに横から牛丼いけしゃあしゃあ。あなたには私の方が似合っているでしょ。あなたの初めては私だったんだからどうせ私のことを忘れられないんでしょ。
ムリヤリ牛丼を押しつけてくる牛丼専門店とはつまりそういうことなのではないか。「牛丼専門」を謳い上げるその表情は自信と確信に満ちあふれている。ある日インターホンがなったと思えばドカドカと台所に上がり込み、結局はわたしが一番なんだから。ありし日の私が好きだったメニューを勝手知ったる態度でテキパキと調理しだす女。代々木駅前の吉野家は今そういうことになっている。


自身に満ちた善意の押し売りほどやっかいなものはない。普通に豚丼くらい置いておいても罰は当たらないはずだ。店舗面積の都合などもあろう、たとえ牛丼のみの取り扱いが店舗運営上仕方のないシステムなのだとしても、豚丼を注文した顧客に対する正しい対応は「お客様、申し訳ありませんが当店は店舗の都合で牛丼しかご用意できておりません。ご容赦下さい」だろう。胸を張って声高に「うちは牛丼専門です」と断言し、牛丼への揺るがぬこだわりを見せつけることに意味という名の花は咲くのか。「牛丼」だけに顧客へ「一杯食わせて」やったぜ感を演出して、いったいそこに何が生まれるというのか。言うまでもなくそこに発生するのは豚丼を失った悲しみ、そして牛丼への憎しみだけである。実に腹立たしい。なめんなよ、吉野家


噴飯やる方ない気持ちを抱えながら待つこと数分、悔しいことに、出された牛丼の美味いこと美味いこと。かるく感動すら覚えるほどに、胃袋が歓喜の声をあげるほどに美味い。これはとてつもない。牛丼やっぱり最高だ。
繰り返すが、私は牛丼専門店舗の存在に断固反対したい。どんだけー。

*1:それ以上は「なにやらすごく大きい人」という枠でひとくくりになってしまうから割愛