咲くLOVE

ヒトに本来的な心の弱さ、つまりときにはこぼしたくもなる愚痴や泣き言。それらを含め内なるネガティブな感情、嫌いなあれこれについて話をするのは私の好むところではない。えてしてそれは非生産的であるばかりでなく周囲にもマイナスの感情を振りまき、全体の総和としてますます世の中を悪くすることになる。どうせなら好きなもののすばらしさや愛すべき失敗談をお酒混じりの笑い話に変えて生きていきたいと思うし、ひいてはそれこそが世の中を幸せにしていくに違いない。
さいごに笑うのは面白がった人間。これは私の数少ないモットーのひとつである。


つまり何が言いたいかと言うと、私は正直コブクロが好きではない。まったくもってハートに響かない。数少ないモットーの数多い例外としてコブクロの何が嫌いなのか簡単に書こうと思う。
「最後にはしっかり感動できますよー」という「安心印」の中でやっているおままごとみたいだとどの曲を聞いても思う。わかりやすい感動のためにやっていますが何か?といった開き直りに言い難い違和感を感じる。曲中に用意された波乱の展開は実にわざとらしく、聞く耳を決して不安にさせない。二人がここ一番のハーモニーで大サビを歌い上げた後、聞きなじみのコードでやさしく終わるんだろうな。最初の音が鳴った瞬間からそんな予感は訪れ、二人の声が流れ出せばそれは確信に変わる。歌詞に込められたメッセージはそのあざとくチープな隠喩性ゆえに耳触りが小気味よい。「国語のテストで点数をつけるなんて誰にもできないはずじゃない」とまさしくコブクロ的な言い訳を常としてきた人々にとっても「この歌詞なら意味がわかるし感動できる!」と、自身の文学的素養に自信を深めるのにうってつけだろう。


「感動が織り込み済みの場所」への親和性には目をみはるものがあって、たとえば結婚式や卒業式。そういった場面で聞くコブクロが否応なしに涙腺を刺激するのは確かだ。知人の結婚式で何度となく聞かされたコブクロはオリジナルバージョン、ピアノインストバージョン、オルゴールバージョンと多岐にわたるが、これ以上はないだろうという似つかわしさで各所を彩っていた。たしかに、ああいうコブクロも悪くはない。
とまれ、言ってみたらコブクロさんの曲は「5分間の24時間テレビ」みたいなものなのかと思う。安っぽくて安易なフェイクファーの叩き売り。私はどうにも好きになれないが、たくさんの人がそこからエールを受け取って元気に変えているのだろう。


伝え聞くところによるとうちのゆみさんがコブクロのファンクラブに入会することを真剣に検討しているらしい。思えば予兆はあった。「特にバラードが良い」なる理由でGLAYのポスターをトイレのドアに貼り付け、緊張感に満ちた排便空間を提供してきたゆみさん。わかりやすい感動に身を委ねやすい残念な体質は五十路を過ぎてまさに春の盛り、当然の帰結としてゆみさんのスピリットはコブクロにたどり着いたのだろう。韓流ブームを回避したときには「よくやった、ゆみさん…」と奇跡の見逃し三振に賞賛混じりで安堵の息を漏らしたものだったが今回ばかりは分が悪い、何せ相手はあのコブクロなのだ。用便時においてTERU、TAKURO、JIRO、HISASHIとの対面を常に余儀なくされ続けた息子だからこそわかる、今回のゆみさんは本気だということが手に取るようにわかる。大阪府堺市の路上からスタートした、というエピソードをゆみさんが知ったときの舞い上がりぶりはいかほどのものだろうか。ゆみさんは堺市出身だ。


今後実家に帰るたびにコブクロが流れているのかと思うと今から頭が重い。おふくろから聞かされるコブクロ…ゆみさんの中に咲くLOVEがいつまでも枯れないことを願う。